三条大橋(2)
三条大橋高札所跡(3)
佐久間象山・
大村益次郎遭難碑(3)
高瀬川(2)
武市瑞山寓居跡(2)
吉村寅太郎寓居跡(1)
加賀藩邸跡(2)
池田屋(2)
先斗町歌舞練場(3)
酢屋(5)
土佐藩邸跡(2)
土佐稲荷(1)
角倉了以碑(1)
本間精一郎遭難の地跡(2)
古高俊太郎邸跡(2)
中岡慎太郎寓居の地(2)
近江屋跡(2)
高山彦九郎像(1)
小川亭跡(1)
四条大橋(3)
歴史・見どころ
木屋町御池上ルにある大村益次郎、佐久間象山の遭難地を
案内する碑があります。
大村益次郎は周防の村医の子として生まれた。
大坂の緒方洪庵の適塾に学び、塾頭となりました。
嘉永3年(1850)故郷に戻り村医者になりますが、
嘉永6年に宇和島藩主伊達宗城に召し抱えられました。
のちに桂小五郎の働きかけにより長州藩で召し抱えとなりました。
慶応元年(1865)高杉晋作の推挙により軍事指揮をとるようになり、
その時大村益次郎と改名。
四境戦争、上野戦争などで勝利をおさめました。
『火吹きだるま』とは高杉がつけたあだ名です。
明治2年8月京都三条木屋町付近で暗殺団に襲われ、
それが原因で11月に没しました。
佐久間象山は松代藩士。
江戸に出て詩文等を学び江戸藩邸学問所頭取などを歴任。
天保12年(1841)藩主真田幸貫が老中海防掛に就任すると
顧問として海外事情を研究。
アヘン戦争に衝撃をうけ海防の必要を痛感した。
江川太郎左衛門に西洋砲術を学び、砲術、兵学の塾を開き、
当時第一級の海外通として知られた。
吉田松陰、勝海舟、河井継之助らが入門。
しかし松陰の密航失敗に連座して国元で蟄居(9年間)となった。
文久2年(1862)に許された。
元治元年(1864)幕命により上洛し、公武合体、開国、遷都を主張。
尊攘派に反感をかい、京都三条木屋町で白馬に乗っているところを、
肥後の河上彦斎に暗殺された。