三条大橋高札所跡
京都の史跡・都の色彩
幕末名所史跡 画像
三条大橋(2)
三条大橋高札所跡(3)
佐久間象山・
大村益次郎遭難碑(3)
高瀬川(2)
武市瑞山寓居跡(2)
吉村寅太郎寓居跡(1)
加賀藩邸跡(2)
池田屋(2)
先斗町歌舞練場(3)
酢屋(5)
土佐藩邸跡(2)
土佐稲荷(1)
角倉了以碑(1)
本間精一郎遭難の地跡(2)
古高俊太郎邸跡(2)
中岡慎太郎寓居の地(2)
近江屋跡(2)
高山彦九郎像(1)
小川亭跡(1)
四条大橋(3)
歴史・見どころ
三条大橋の東北の西詰め北側のたもと(現在スターバックスがある側)に
幕府の高札を掲げる制札場がありました。
慶応2(1866)年、長州藩を誹謗する高札が立てられたが、
これを何者かに墨で塗りつぶされたり、
引き抜かれたり、川に投げ込まれたりと、
何度立てても同じ状況が続きました。
業を煮やした奉行所は、新撰組に監視を命じました。
原田左之助、大石鍬次郎、新井忠雄らが
橋の付近の会所や町屋に分かれて潜み、
浅野薫・橋本皆助は乞食に扮装して橋の下から見張っていました。
夜、不審な一団がやってきて高札を引き抜き、
川に投げ込み始めました。
乞食変装組も原田隊も異変に気づき、斬り合いになり、
捕らえてみると犯人は8名で土佐藩士でした。
土佐藩士は2名が死亡、1名は屯所で尋問の後、
奉行所へ引き渡され、残りは逃亡しました。
土佐藩は新撰組と不和になってはまずいという事で、
近藤、土方、伊東らを祇園に招待し1席設けたといいます。
乞食に扮して三条大橋の下、というのは潜伏の常套手段だったようです。
桂小五郎も朝敵となって逃げ回っている時は
乞食姿で三条大橋の下でした。
それが一番怪しまれない方法だったようです。
三条大橋の西南側から橋の下に潜ることができます。
橋の下は整備され、鉄杭で補強されてはいます。
橋の下から制札場のあった辺りを覗き、
乞食組の浅野薫達の視線を再現するのも趣向の1つだと思います。
きっと、高札を抜く土佐藩士の姿が想像できると思います。